2011年10月19日水曜日

【小休止】四日市訪問

今日は農業の話題はおやすみ。

その代わり、友達を訪ねて四日市に行ったときのことを書く。
もう一ヶ月近く前のことやけど、ちゃんとブログに残しときたかったから。

四日市という町は知っとるかな?
たぶん「四日市ぜんそく」のイメージを持ってる人が大半やで、四日市の人はほんまにかわいそうなんやけど、一応三重県の中では一番人口も多いし、町も栄えてるとこらしいんや。
三重県に関する記事でもあるから、一応県全体の地図を載っけとく。
ちなみに県庁所在地は、津ね。


今回は大学の友達との久々の再会ということで、その四日市を訪問したわけだが、
彼が色々と四日市や三重のことを紹介してくれてんか。
今は鮎河という農村地域のことを真剣に考えているとこやけど、
地方都市や県のことについては考えたことなかったから、とても新鮮やった。
それを紹介したい。


基本情報やけど、四日市の人口は30万人程度。
中規模の都市といったところか。

さっきも言ったように、まず四日市と言ったら石油化学工業のイメージだ。
ぜんそくの加害者である石油化学コンビナートがあるからには、
当然四日市は石油化学工業を中心に発展しているところだと思っていた。
しかし、友達曰く、今はコンビナートもほとんど動いてないらしい。
これが実際の光景。なるほど、確かに煙突はかなり多いが煙はほとんど出ていない。



小学校のときの知識だけを頼りにしていたら、とんだ偏見をもってしまうことになるのか。
もう「○○工業地帯」とか覚える意味はないんだな。(今の小学生も未だにこう習ってるらしいけど)
それほど工業のあり方も変化している。

工業地帯としての特色が薄れているとしたら、じゃあ三重県で一番人口の多い四日市市とは、
いったいどんな街と言うべきなのだろう。
友達に聞くと、シンプルに答えが返ってきた。
「ベッドタウン」、と。

ベッドタウン??
ぼくの実家のある国立市は、都心に通勤する人のまさしくベッドタウンだけど、
なぜ三重県で一番大きな四日市がベッドタウンなんだ?

その答えは、次の写真に現われている。


なんと名古屋まで34分!特急やったら30分を切ってしまうんや。
三重県は近畿の一部やから、どうしても愛知県とは切り離して考えてしまうけども、
距離的には名古屋の郊外というべき位置にあり、人の流れも活発。
ちょうど東京と埼玉の関係といったところか。
三重県は東海地方の一つとして覚えたほうが役立つんやないやろか。

てなわけで、人生で初めて三重県を愛知とセットで認識するようになった。


名古屋のベッドタウンてことはわかったけど、
それじゃあ四日市の街自体は今どうなっとんねん?
三重県で一番大きいからには、色々面白いところがあるはずやろ~。

それを確かめるべく、ぼくたちは四日市視察に繰り出した。
正確には、案内してもらったわけだが。


まずは旧東海道を歩く。
四日市市は、意外と知られていないが東海道の43番目の宿だ。
ここから西やさらに行くと、今暮らしている土山や水口、そして草津へと向かう。
南へ行くと、かの有名なお伊勢さんにたどりつく。
江戸時代から宿場町として、交通の要所として栄えていた。

今でも旧東海道には古い街並みが残っており、古くから営業しているお店もある。
その一つに、名物の「なが餅」を作っている笹井屋というお店に立ち寄ることに。
文字通り、ホントにながーい餅。おいしい!



東海道をずっと歩いていくと、大通りにぶち当たる。
舗装されていて、なかなかきれいな大通りだ。
写真をとるのを忘れたが、ここは以前は路面電車が走っていたらしい。

そしてその大通りの両端が、JR四日市駅と近鉄四日市駅だ。
珍しいのかどうかわからんが、「四日市駅」は2つ存在していて、両者は1kmも離れている。
友達曰く、昔は海沿いにある工場に近いJR四日市駅周辺が栄えていたが、今では内陸側の新興住宅に近い近鉄四日市駅周辺が栄えているんだとか。
工業のあり方、人の住む場所が変化するにつれて、街のあり方も変化する。
四日市はその顕著な例だ。

ここに、四日市がいまいち発展しない理由があると友達は言う。
街の中心部が定まらず、1km隔てて街が分裂してしまっている。
これでは住民にとって不便だ。
新しく進出する企業やお店にとっても、どちら側を選んでよいのやら。

分裂というと、三重県全体にも当てはまる。
最初に貼った地図を見てもらえばわかるように、三重は縦に長い。
経済活動で地域を分けるとすると、名古屋圏に入る桑名・四日市エリア、津を中心とした津・松阪・伊勢エリア、そして山奥にある熊野・尾鷲エリアという感じか。
それぞれの経済圏が分離していて、三重県全体としての一体感がない。
友達が言うには、県庁所在地である津はほんとにしょぼい街で、それが三重県の求心力のなさを象徴しているんだとか。
地理的な問題もあるだろうが、もうちょっと県の機能を津なり四日市に集中して、三重県全体で経済圏をつくることもできたんじゃないかと思ってしまう。


そんなことを話しながら、ぼくたちは現在栄えている近鉄四日市駅へと向かった。
栄えていると言っても、正直期待していたほどではない。
学生たちは多いが、それ以外には人もあまり見られない。商店街もさびれてしまっている。

こういう街で唯一生き残れるのが、複合商業施設なんだろう。
四日市には、LaLa square という施設があり、やはり充実していた
安い食料品店、ゲームセンター、映画館。
薄利多売のこの世の中を象徴するお店が並ぶ。



結局、生き残るお店は東京や大阪にもある安いチェーン店ばかりで、
古くから四日市にあるお店や企業は追い出されてしまっているのだろう。
なんだか切ない。けどこれが時代の流れなんだろうか。

薄利多売の切なさは、四日市の伝統工芸品「萬古焼」の売上が落ちていることにも表れている。
萬古焼というと、土鍋や急須で有名な焼き物で、土鍋の国内シェアは7,8割と言われているくらい。
それだけ有名な伝統工芸品でも、このところは販売に苦しんでいるようだ。
今や、お金を持っているコアな消費者をターゲットにして価格をあげているとか。



萬古焼の展示博物館のようなところにも足を運んだが、全く人の気配はない。
長く続いてきた地方産業の存続が危ぶまれていることを肌で感じる経験だった。


なんだかやっぱり日本の地方の未来は暗いなあ。
そんなこと思いながら、こちらも人で賑わう近鉄デパートへ。
ここで、友達が一つのお店を案内してくれると言う。
このお店こそが、地方の未来、そして農村の未来に希望を持たせてくれる存在となる。


「伊賀の里 もくもく手作りファーム」という存在を知っているだろうか?
詳しくは、http://www.moku-moku.com/ を見てほしいんだけど、
三重県の伊賀市にある農事組合法人で、いわゆる「農業・畜産業の六次産業化」に大成功を収めている施設・団体である。
ぼくもちらっと名前を聞いたことがあるくらいで、詳しいことは知らなかった。

もくもくは、伊賀の養豚家が集まって1980年代に設立され、のちにソーセージの手作り体験教室をはじめたことをきっかけに集客が大幅に増加。以後、事業を広範に拡大してきた。
今や、三重県だけでなく、甲賀市を含めたその周辺地域にも広く知られる存在となり、
レジャーとして訪れる人や、ソーセージの郵送サービスを利用する人が多いらしい。
友達も、チーズinソーセージを購入していて、夕食にふるまってくれた。それがまたうまい!

六次産業化というとなんとなくここ最近のはやりの気がするが、
それを80年代からはじめていることが何より凄い。
数々の困難はあったと思うが、時代の先を行く人は、必ず成功を収めるのだろう。

仕事柄、常に農村部の将来を考えているわけだが、
やはりもくもくのように、その地域で取れた野菜やお肉をその地域で加工して販売していくことが、
経済的に生き残っていく一つの道であることは確かだ。
どうしても野菜やお米の非加工品の販売だけでは、採算がとれない。
TPPの議論が過熱しているが、輸入が今後さらに増えるとなると、なおさらだ。

まあ、成功例を真似するだけではうまくいかないのはわかっているけど、
ここに一つの光があることは間違いないな。

そんな話をしながら、もくもくが経営しているお店でジェラートを食べた。うまい。
商品の並べ方もセンスがあって、客を惹き付ける理由がわかる。


そんなこんなで、今回の四日市視察は終了~
記事が長くなってしまったように、すごく内容の濃い経験をさせてもらったな。
ただぶらぶら歩いていただけだけど、街のことを考えながら歩くといろんなことがわかってくる。

この経験を、今度は甲賀市や鮎河で活かしてみたい。
甲賀市はいったいどんな街で、鮎河の未来はどう描いていったらいいのだろう。

2011年10月12日水曜日

「百姓」は「えらい」。

そういえば、最近タイトルを「農業はえらいなあ」から「百姓はえらい」に変えてみた。

鮎河ではみんな自分たちのことを「百姓」と呼ぶ。
ぼくの感覚としては、「百姓」と言われると江戸時代の農民をイメージしてしまうし、なんとなく差別的な意味が含まれている感じがするが、こっちの人はためらいもなく「百姓」を連呼する。
古来からの習慣なのか、はたまた「百姓」を自負しているからなのか、どうなんだろう。

もともと「百姓」というのは、「たくさんの姓をもつ人」、つまり万民を指す言葉だった。
それが、いつしか支配者が治める対象の商人や農民を指すようになり、中世以降は、「百姓の本分は農である」という認識が広まる。そして江戸や明治期になるとその認識が完全に定着し、「百姓」=「農民」ということになったらしい。

語源からもわかるように、昔はほとんどの人が「百姓」だった。
自分の食糧は自分でつくり、あまったものは嗜好品と交換する。
農業は生活の基本であり、「百姓」は日本の主体だった。

鮎河に、鍋家さんというおっさんがいる。
おっさんは、「百姓」の身を心から誇りに思っており、「百姓」と自称するのもそれを自負しているからに違いない。
昼は畑にでて畑仕事。夜は農学や民俗学に関する本を読む。
農業に対する姿勢は、これぞプロの「百姓」だ。

「百姓」というのはやはり戦後期から差別用語として認識されるようになり、、それは都市が洗練されていて田舎が卑しいという昔からの認識が影響しているらしい。
そもそも、田舎が卑しいという認識が間違っているのに、それに引きずられて「百姓」も差別用語になってしまったわけか。なんとも悲しい。

鍋家さんを見ていると、「百姓」が卑しいだなんて、とんでもない。
「百姓」の仕事はほんまに「えらい」のに、それを苦にせず、誇りをもって全うする。
その姿勢は、ほんまに「偉い」。
「えらいなあ」なんて呑気に言ってられない。

「百姓」は「えらい」。

2011年10月5日水曜日

鮎河菜 あいがな

ここんとこなかなかブログを更新できん。
稲の手刈り(これまたどろどろになってえらいんや)やら鮎河菜の苗作りやらで外にいることが多くてなあ。

あっ、そういえば、鮎河菜っていう特産品は知っとお?
甲賀市の四大特産物やって、横内さん(農協の職員かつ同じ寮の隣人)が言ってた。
ちなみに他の3つは、水口のかんぴょう、下田ナス、杉谷ナス、確か。

今日は、鮎河菜ってどんな菜っ葉なんだろう?って思ってもらいたいから、
あえて完成品は見せずに、おなじみ畑作業、苗作りの様子を紹介するわ。

鮎河菜は、いきなり畑に種をまいてもいいが、
きちんと発芽させて成長してもらうために、セルトレイで苗作りをする。
ちなみに、セルトレイにいる期間は大体1ヶ月くらいで、その後畑に解き放たれる。

まずは、セルトレイをおく台を作る。
地面にそのままトレイを置いておくと虫がついてしまうので、高さを出さなきゃならんらしい。
これも百姓の長年の知恵だね。



土台の準備がととのったら、種植えへ。

セルトレイの中に、栄養たっぷりの培土を入れる。
袋からどさっと土をトレイに出し、手を使ってさぁーっと土をならす。
ふわふわの土と戯れることができてなかなか楽しい。


すりきり分の土が各トレイに入ったら、
次に種を入れるためのスペースをつくるために、【秘密兵器1】ゴリゴリ君を使用する。
水色のものがゴリゴリ君なのだが、側面に突起がずらーっとついていて、
転がすことで一突起一つのトレイにきちんとはまるようになっているすぐれもの。
ゴリゴリ君とセルトレイは相性抜群てことだ。


ゴリゴリ君によって、すりきりあった土の表面が突起分だけへこみ、そこにスペースが出来る。
そここそ、鮎河菜の種ちゃんがおやすみになる、いや育っていく部屋だ。
一部屋一人住むことになるのだが、一人一人入れていくのはつらい。
なんせ、セルトレイは約200枚もあり、一つのトレイに128部屋もあるのだから、計25600人も入れなきゃいけないのだ!

そこで登場するのが、【秘密兵器2】シャカシャカシャンだ。


構造はいたって簡単で、プラスチックの表面にセルトレイの部屋の数だけ小さなくぼみがある。
大量の種をシャカシャカシャンの中に入れて、シャカシャカすることで、
そのくぼみの中に一人ずつ種が入ってくれる。
きちんと入ってくれたことを確認したら、カシャンとプラスチックをずらすことで、
くぼみに入っていた種が下に落ちてくれるというわけだ。




種が各部屋に入ってくれたら、その上からまた培土をかぶせてできあがり!
さっきも言ったように、このトレイを200枚作るのだ。
最初は楽しいが、だんだん腰がえらくなってくる。
結局、初日はまこちゃんと2時間ほど、2日目は1人で2時間ほどやって、200枚終了~
並べられたトレイを見ると気持ちいいねえ。


今後は、朝晩と1日2回スプリンクラーで水やりせなあかん。
川から水をポンプでくみ上げてタンク(上の写真のオレンジの物体)に入れ、
そこからまた機械をつかって引き上げて蒔く。
毎回15分くらいなんやけど、毎日2回となると続けるのはちょっと根気がいる。
これを1ヶ月つづけたら、いよいよ苗を移し替えられるのだ!

また移し替えるときにブログ更新しまーす。
早く鮎河菜の完成品を見せたいな。

最後に、種を植えたのが10日前やから、いまの姿を見せるわ。
よう育っとるわい。