2011年10月12日水曜日

「百姓」は「えらい」。

そういえば、最近タイトルを「農業はえらいなあ」から「百姓はえらい」に変えてみた。

鮎河ではみんな自分たちのことを「百姓」と呼ぶ。
ぼくの感覚としては、「百姓」と言われると江戸時代の農民をイメージしてしまうし、なんとなく差別的な意味が含まれている感じがするが、こっちの人はためらいもなく「百姓」を連呼する。
古来からの習慣なのか、はたまた「百姓」を自負しているからなのか、どうなんだろう。

もともと「百姓」というのは、「たくさんの姓をもつ人」、つまり万民を指す言葉だった。
それが、いつしか支配者が治める対象の商人や農民を指すようになり、中世以降は、「百姓の本分は農である」という認識が広まる。そして江戸や明治期になるとその認識が完全に定着し、「百姓」=「農民」ということになったらしい。

語源からもわかるように、昔はほとんどの人が「百姓」だった。
自分の食糧は自分でつくり、あまったものは嗜好品と交換する。
農業は生活の基本であり、「百姓」は日本の主体だった。

鮎河に、鍋家さんというおっさんがいる。
おっさんは、「百姓」の身を心から誇りに思っており、「百姓」と自称するのもそれを自負しているからに違いない。
昼は畑にでて畑仕事。夜は農学や民俗学に関する本を読む。
農業に対する姿勢は、これぞプロの「百姓」だ。

「百姓」というのはやはり戦後期から差別用語として認識されるようになり、、それは都市が洗練されていて田舎が卑しいという昔からの認識が影響しているらしい。
そもそも、田舎が卑しいという認識が間違っているのに、それに引きずられて「百姓」も差別用語になってしまったわけか。なんとも悲しい。

鍋家さんを見ていると、「百姓」が卑しいだなんて、とんでもない。
「百姓」の仕事はほんまに「えらい」のに、それを苦にせず、誇りをもって全うする。
その姿勢は、ほんまに「偉い」。
「えらいなあ」なんて呑気に言ってられない。

「百姓」は「えらい」。

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